「あなたの中のアートが社会へ開かれる時」宮島達男 080523@六本木アカデミーヒルズ

【Part3】
『「時の蘇生」柿の木プロジェクト』は今年で13年目となる。この活動については、作品というよりは社会に開かれたプロジェクトである。プロジェクトを通じて、参加者が何かを表現していくということがアートである。プロジェクトの概要については、宮島氏のオフィシャルサイトにその経緯が記されています。

単に植樹するだけでなく、絵を描いたり、演劇や詩の朗読などの表現が行われる(こういう時にヨーロッパでは自作の詩を朗読することが多いらしい)。被爆二世の柿の木を植えるということをきっかけにして、表現すること(=アート)によって感性を開く。
しかし日本の美術界には、このようなことは馴染まない。日本では純粋芸術(=芸術のため
の芸術)が好まれる傾向にある。
私は被爆二世の柿の木に出会ったときの感動を誰かに伝えたいと考えた。その方法としてアートを使った。

ここで、心に残ったのは「アート」を伝えるための「手段」として「使った」ということである。そういう考えが、日本の美術界では好まれない。むしろ批判されるということを語っていた。アートはアート作品としての純粋な価値が重要で、他のメッセージを付与することはアートの価値を下げるという何か偏った価値観が存在していることは、なんとなく感じていました。しかし、元々アート表現は何らかのメッセージを作品として表現しているのであり、それが作者の持つ世界観や苦悩であることが多い。その表現が普遍性を持っているなら観る側に何らかの共感が芽生えたり、また見たことのない世界であれば新しい世界を見せてくれるものであったりする。しかし、プロパガンダや宗教的なメッセージであると多くの日本人はなぜだかそれを胡散臭く感じてしまうのだ (確かに自分にも当てはまる部分がないわけではない)。そう書きながら、自分もすでにその先入観に囚われているのかもしれない。

柿の木プロジェクトは、クチコミでその活動が広がっている。植樹の申し込みもあり、ボランティアも表現者としてプロジェクトを自主的に運営している。1999年のヴェネチアビエンナーレで、地元で柿の木プロジェクトを行った。ヴェネチアビエンナーレといえば、世界的な美術の祭典であるが、地元は意外にも縁遠い存在だったらしい。それで、この柿の木プロジェクトを行ったら、小学生たちが遠足でやってきた。地元の共感を得ることができ、ビエンナーレで情報が発信されたために世界中からオファーが来るようになった。日本での反応は遅い。ヴェネチアビエンナーレ後、日本で柿の木プロジェクトを批判する人はいなくなった。現在では、20カ国、179ヶ所で被爆柿二世は植樹されている。

日本では、美術についてはよく「逆輸入」でないと箔が付かない。ヴェネチアビエンナーレで高い評価を得ると、それだけで巨匠として扱われるようになるのである。日本国内では、美術界が屈折しているのか評価というのがなかなか正当にされない。海外からの評価がそのままスライドしてくる。それは一体どうしてなのだろうか?

植樹をする子供たち、それをサポートする大人たち。携わる人たちがみんな輝いている。みな、アーティストではできない表現をぶつけてくる。
アイルランドでの柿の木プロジェクトは、それまでにない新しいものだった。アイルランドでは、キリスト教カトリックプロテスタントの学校が合同で演劇に取り組み、プロジェクトを行った。これは通常では考えられない。
岐阜県の大垣では、植樹を毎年行っており柿の木がどんどん増えている。そして、毎年その日を「平和の日」として集まり、大合唱をする。
このことから、アーティストとはもう特別な存在ではない。柿の木を通じて、ひとりひとりが表現したり、感じたりすること。すなわち「Art in You」=あなたの中にアートはある。一人ひとりの中に、アート的なものがある。それを開いた時にアートが生まれるのである。
夕焼けを見て、きれいだと思わない人はいないと思う。それはアートを理解することと何も変わらない。アートを感じるチャンネルの向こうに「ピース」がある。

この後、質疑応答が行われました。質問に対しての答えというよりは宮島氏の考えがより解りやすく語られていたと思います。それはやはり質問者という1対1だからかもしれません。1対多数では、一方的になってしまいますから。宮島氏の印象的だった発言を私なりにまとめてみます。
☆まず、アートが「癒し」につながるか?という質問について。

私は「癒し」という言葉はあまり使いません。イメージの問題ですが、使われ方として「人(他人)に癒される」という使われ方をする。人には、それぞれの中に自浄能力がある。何かに「癒される」というよりは、自分自身で蘇ることができる。そして、アート作品とは、観る人が自分で気づくことがアートである。

私も「癒し」という言葉が受身のイメージからネガティブに感じられるということかと思います。アート作品はあくまでもいろいろなきっかけであり、そこから何を感じるかということに意味がある。このレクチャーを通して、何かを感じる心の動きがアートであるということを終始一貫して伝えていたのだと私は解釈しています。
☆アーティストサミットの趣旨は?

世界アーティストサミットとは、世界中から一流のアーティストを集めて、現在ある様々な難問をどうしたら解決できるか、想像力を使って解決するという会議だそうです。その会議ではアートの話はしません。アーティストとしてはライバル同士ですが、円卓で2日間、真剣に話し合います。その模様は、本(「世界アーティストサミット」)としても出版されています。その場で集まってできたことに意味があると思っています。10回くらいは続けたいです。時には突拍子もない案もありますが、解決したいと思うエネルギーの強さがあります。

☆宮島さんのコンセプトである「Art in You」(あなたの中にアートはある)ですが、何故「Art in You」であって「Art in Us」ではないのでしょうか?

日本人はよく「私たち」という表現を使います。主体がぼけてしまう。単一民族ということもあるが、「だれもがそうだ」というような考え方がある。(宮島氏としては)個人個人がつぶ立ちして欲しいと思う。日本文化的ではあるが、一人一人みんなが違うはずである。個性が感じられる方が面白い。ですから、あなた一人という意味で「Art in You」としています。

☆アートをどのように観たらいいのか?値段が高いものや賞を取ったものなどありますが、そういう作品はどう観たらいいですか?宮島さんは他の人の作品を観る時、どんなポイントで観ますか?

まず、その時の自分の気分や体調、環境にも左右されると思います。ですから、できるだけ素直な気持ちで観ることを心がけています。それは、野の花をみるような気持ちで素直に観る。時には感動できない日もあるがそれでもいい。
また、自分にとっていいと思うことが大切。賞というのは、一つのきっかけですから、それが作品に触れるきっかけが増えることはいいことだと思う。しかし、賞自体は絶対的価値ではないです。その賞を決めている人にもよります。あくまでも、(賞や話題を)きっかけとして作品を観るのであり、判断をするのは自分です。
しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチ雪舟など数百年残っている作品というのはきっと何かあると思う。みんながいいと思うものというのは、じわっと感じるものでそれに嘘はない何かがあるのだと思います。

作品の見方というのは、みなそれぞれ違うと思います。いいと思う作品も違えば、同じ作品でもいいと思うポイントも違うと思います。それは自由でいいのだと改めて感じました。
あと、やはり印象的だったのは残っている作品にはやはり何かがあるということ。たくさんの人がその作品をすばらしいと思うということはそういうことなのだと思いました。現代アートといわれるもので、数百年、数千年残るものはどんなものなのかというのも興味があります。現在のテクノロジーを利用したデジタルカウンターは残るのかどうか?作品を残したいとしても、可能なのかどうか?そしたら古典的な素材である日本画や油絵、彫刻などの方が材質としては残せるのではないか?などと考えてしまいました。しかし、みんながいいと思った作品を残したいという気持ちさえあれば残るのかなとも思いました。

世界アーティストサミット (アート新書アルテ)

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