「今、建築家が一番面白い」と東京都現代美術館の長谷川祐子氏は語る - ケンプラッツ を読んで

「今、建築家が一番面白い」と東京都現代美術館の長谷川祐子氏は語る
この記事コメントで、厳しい現実で戦っている建築士さんたちの意見が綴られています。この不景気で、目の前の仕事を堅実にやっている人たちが報われない。建築業界や製造業、小売もそうだと思います。楽して儲けるなんてありえなと思いますが、苦労しても儲からないから不平を言いたくなるわけです。日本に住んでいると、サービスされて当たり前という感覚があります。それは、本来なら「おもてなし」の気持ちから出発していたわけですが、それがないとクレームを言うわけです。お金を払う方が偉くて、いただく方は恐縮する。これはよく考えてみたら嫌な風習です。
もし、住宅を建てるとしたらそのため考えなければならないことがどれだけあるのか?単にデザインだけでなく当然コストや性能、建築が始まれればご近所へのご挨拶など(工事では近隣への配慮を怠るとあとあと痛い目に合いマス)もう考えただけでも大変なのですよ。お施主さまのこと、職人さんのこと(多様な専門の職人さんがいますから)、仕入先など一体どれだけの人とコラボせねばならないか。そういうことに対してお金を払うことは当然だと思うのです。分業すればその分費用が上がるのは当然です。流通するところが多くなるのですから。でも、単に流通しているだけでなくてちゃんとそこには担当している人たちの経験値による最善の策という付加価値が乗っかっているわけです。それぞれの世界としては深いから専門の人がいるわけです。その経験値に是非価値を感じてもらいたい。
建築関係の方のニュアンスは、技術職に誇りをもてる社会になって欲しいということだと思うのです。長谷川裕子さんの記事なのですが、キュレーターという立場からの意見ということです。立ち居地よって当然視点が違います。芸術なんて道楽だというのなら、無視すればいいのです。でも、長谷川さんの言うことが建築に関心がなかった人たちにリーチすることはあると思います。人はどんなきっかけで将来を決めるかなんてわからない。芸術を志している人が、建築に関わることになるかもしれない。建築といっても、多岐にわたるので、その流れのなかでどのパートを受け持つかなんてわからないし、紆余曲折あって最終的に何かを作ることになるかもしれない。または、交渉する立場になるかもしれない。そんなことわからないけれど、芸術をずっと見続けてきた人が「建築が面白い」(実際には建築家と言っていますけど)と興味を持っているわけです。それって、意味のあることだと思うのですけど。ただ、芸術は一人でもできるけど、建築は一人じゃできない。でも、その意味でもキュレーターというのは、芸術家がいなければできない仕事なので建築家のコミュニケーション能力ということもリスペクトしているはずですよ。。