デ・ステイルとは何だったのか?

バウハウスとは、(つい最近も藝大の美術館で展覧会がありましたネ)ザックリ言っちゃうと学校教育という共同体を介したデザイン運動だった。
産業革命によって工業製品というものが誕生した時代に、デザイン教育という(それまでは工房が担ってきた)ものを体系化したことが今のデザイン教育にも多分に影響しているために、展覧会や書籍として身近である(実際、バウハウスは書籍を多く出版している。今でも手に入るのもが多い)から、バウハウスについては多くの人が興味を持っている。しかしデ・ステイルは?とたずねた時に、答える人は少ないかもしれない。オランダのデザイン運動とか、モンドリアンリートフェルトの名前まで出てくるとうれしい感じです。
デ・ステイルの展覧会が、いまはなきセゾン美術館で10年前に開催していたのが、ちゃんとしたデ・ステイル展の最後だと思います。デ・ステイルの資料といえば、この展覧会の図録ぐらいです。

デ・ステイルをとは何だったのか?
デ・ステイル」とは、1917年にオランダのライデンで創刊された芸術雑誌『デ・ステイル』と、それを中心とした芸術運動の総称のことを指します。
中心人物は雑誌を創刊したテオ・ファン・ドゥースブルフピエト・モンドリアンであり、デ・ステイルの方向性を決定したのはモンドリアンによる新造形主義でした。新造形主義のもとに多くの画家、建築家、彫刻家などが参加しました。
モンドリアンによる新造形主義は、自然主義を捨てて純粋な造形表現を追及した結果、垂直と水平の線と原色による表現に辿り着いた。いわゆるモンドリアンスタイルです。モンドリアンは純粋芸術である絵画によって、ファン・ドゥースブルフは建築によってその思想を表現しようとした。モンドリアンとしては、新造形主義を実用化することに対して違和感をもっていたようです。純粋芸術とは、その表現というものが純粋であるということで、デザインや建築など、実用的なものはその用途と造形という二つを追求するという意味で純粋ではないという解釈だと思われます。
1918年、ヘリット・トーマス・リートフェルトによって発表された「レッド&ブルー」は、実用化に対して違和感を持っていたモンドリアンにその可能性を感じさせた言わばエポック的な作品であった。しかし、1924年にファン・ドゥースブルフがその表現に垂直と水平だけでなく、対角線を導入したことにより、純粋性を追求してきたモンドリアンとしては、その考え方の違いによって結果的にデ・ステイルを離脱することになります。
1931年にファン・ドゥースブルフの死によってデ・ステイルはその終焉おを迎えることとなります。ファン・ドゥースブルフが雑誌でその思想や作品を紹介することによって、資料として残っているためにデ・ステイルを語ることはその雑誌の内容を解釈することになっています。また、雑誌というメディアであるために海外でも紹介されたり、ファン・ドゥースブルフ自身が様々な海外の建築家などとコンタクトを積極的に取ることによってデ・ステイルは多くの影響を与えることになります。